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いろいろ終わりました [雑談]

中国 王朝の至宝』展が終わりました。展示資料と器材の撤収、そしてそれらを次の会場の九州へ送り出して、2日前の土曜日に全部完了しました。冬からずっと縛り付けになっていましたが、これでひとまず解放されます。

昨春も今回と同じ時期に、自分の企画で、尾張の古墳時代に関する企画展をやっていました。思えば、13年前に名古屋に就職したとき、中国と、尾張の古墳時代、どちらの分野でも自分がこの地方の顔になり、どちらの分野も自分の手で何らかの形にまとめて公にしてやろうと考え、そのことを身近な知人・友人たちに宣言していました。それから博士の学位も、できるだけ若いうちに取ろうと思っていました。それらのためにいろんな環境づくりをして、自分の持てる力を全力で振るってきました。一方で、振り回す力余って、良くも悪くも破壊してきたものも少なくありません。ともあれ、14年目にして、所期の目的をすべて果たしましたし、いろんなことがひと区切りを迎えました。

これからまた、次の段階へ動いていきたいと思います。まずはこの夏に韓国で開催される国際シンポジウムの発表準備、それから秋までに来年に博士論文を出版するための準備を。エンジンかけ直さないといけません。
知人・友人のみなさん、どうか応援してください。

南京獅子沖南朝陵墓の調査動向 [魏晋南北朝考古]

南京獅子沖南朝陵墓は、発掘調査は依然停止したままで、大きな問題となり、今月初めに北京にある国家文物局で会議が開催されるなど議論になっています。

さて、陳文帝陳蒨永寧陵とも目された同陵墓ですが、どうやら「普通七年」銘のある磚が出土しているようです。そうすると、普通七年は526年、梁武帝蕭衍の治世前半期の年号ですから、永寧陵説はちょっと無理な情勢です。皇帝級の人物(皇帝の礼で喪葬がおこなわれた人物)のうち、この墓磚銘と没年が最も近いのは、531年(中大通三年)に没した梁昭明太子蕭統です。もし被葬者が昭明太子であれば、王志高説が当たり、ということになります。

それにしても・・・昭明太子といえば、『文選』ですよ。あまりに有名すぎて、もしその陵墓発見となれば、何か歴史の時空を超えた感覚を抱かされますね。
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発表論文 [研究活動]

本ブログに少し手を加えて、僕が書いた論文をダウンロードして読んでいただけるようにしました。
欄外左側サイドバーの「Academia.edu」バナーをクリックして別サイトに移動してください。そちらでダウンロードしていただけます。今までに書いた論文すべてではありませんが、主要なものはだいたいアップしてあります。
ご興味のある方はよろしくお願いします m(_ _)m。
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高句麗太王陵銘文磚 [中国考古]

職場の博物館が所蔵する1点の磚が、高句麗太王陵の磚であることを確認しました。
その話題を中日新聞さんが記事にとりあげてくれました。驚くことに第1面に掲載で!まあ、他にこれといった話題がなかった日だったのでしょうが・・・(笑)。
2013年4月16日~6月23日の間、常設展示室内の「フリールーム」で公開中です。よかったら、4月24日~6月23日開催の『中国 王朝の至宝』展とあわせて、ご来館ください。

中日新聞20130416朝刊.jpg
中日新聞2013.04.16朝刊
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「南朝陳文帝陳蒨永寧陵」の調査 [魏晋南北朝考古]

 この3月初め、時間のないなか、3日間だけのとんぼ返りで南京での南朝陵墓発掘現場を見学に行ってきました。
前回2月の記事で紹介した、「南朝陳文帝陳蒨永寧陵」の発掘現場です。
 現段階では、同じ学閥の関係研究機関の方々でさえも、墓葬の調査区域には立ち入れないという閉鎖現場です。帝陵ですから、調査成果の判断には慎重さが求められますし、盗掘等のことも考慮すれば、この情況はやむを得ないことです。僕は墓葬調査区は立ち入らずに見せてもらい、その他の調査区は間近で見学させてもらうことができました。上記のような情況の現場にかんする情報なので、詳しい所見を提供することはできません。
 今回発見された南朝陵墓は、おそらく「帝陵」であり、獅子沖石獣に対応するものであることは、まず間違いありません。時期は南朝後期。獅子沖石獣を劉宋文帝長寧陵に当てる一部の研究者の説は、今回の発掘調査で完全に否定できます。ただし、すぐさま陳文帝永寧陵の可能性に結びつくかというと、そこは微妙です。現段階では梁代と考えられる点もあり、だとすると梁昭明太子安陵とする王志高説が浮かび上がります。
 発掘調査はまだ序盤でしたので、その後おそらく大きく進展していることとおもいますし、すべてが終われば考古学的知見から結論が出るでしょう。また機会を改めて、その後の情況を教えてもらいに南京へ行こうとおもいます。
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南朝陳文帝陳蒨永寧陵、発見! [魏晋南北朝考古]

ついに、南朝陳文帝陳蒨永寧陵の可能性が高い墓が発見されました。そしてこのことで、従来、六朝考古の議論の焦点で重要な課題であった、南京獅子沖南朝陵墓石獣がこの陵墓に帰属するものであることもおおむね確定しました。これはすごいことです。ちなみに僕の自説・・・というか、支持する説も陳文帝永寧陵説でしたので、僕にとっては自分の六朝考古の見解が誤っていなかったことがわかり、とても嬉しいです。帝陵公園のオープンも期待大です。

以下、報道内容のざっくり翻訳をご紹介しておきます。

《原題:南京で南朝陳文帝陵墓を発見 帝陵公園を建設》
出典:新華網江蘇頻道、2013.2.1

新華網江蘇頻道、南京1月31日電(記者・蒋芳) 記者が南京市文広新局より接した知らせによれば、これまでに棲霞山獅子沖で考古学的に発見のあった2基の南朝大墓は南朝帝陵と確定し、初歩的分析によってこの「帝」は陳文帝陳蒨である可能性がきわめて高い。考古作業すべての完了を待って、南京はこの場所に南朝石刻博物館と帝陵公園を建設するべく、2013年にも起工する予定。

これまでに、南京市博物館考古隊は棲霞区獅子沖北象山南麓で、長さ11m以上・幅約7mの2基の大型南朝墓葬を発見していた。ここの神道石獣の帰属は、かつてから宋文帝長寧陵、陳文帝永寧陵、昭明太子安陵など多くの説があった。「考証を一歩進めれば、ここが帝陵であることは疑う余地がなく、墓主は陳文帝である可能性がきわめて高い。」と南京市文広新局局長陳光亜はいう。いま、春節間近で作業人員はみな帰省して新年を迎えなければならないので、そのため陵墓の考古作業はしばらく停止し、埋め戻して保護し、春節を迎えた作業人員が戻ってきた後に発掘を継続する。

調べによれば、南朝陵墓の多くは南京の棲霞、江寧一帯に集中しており、これまで棲霞区で発見された南朝石刻の多くは蕭氏家族の陵墓石刻で、加えて今回発見した陳文帝陵墓があり、さらに2012年に考古関係者が棲霞霊山北麓で発見した南朝大墓は、この墓の甬道中の1基の大型石門は精美な文様の彫刻で満たされており、六朝絵画芸術を研究するうえで貴重な資料である。将来、南京では棲霞一帯を選定して、南朝石刻博物館と南朝帝陵公園を建設する。工事は2013年にも起工の予定だ。

陳文帝(522~566年)は、南北朝期陳朝開国の皇帝・高祖武皇帝陳覇先の長兄、陳道談の長子、陳朝の第二代皇帝であり、在位7年、年号は天嘉。彼の在位時期は、陳朝の政治が明朗で、民衆は富み豊かで、国力は比較的強盛であった。南朝歴代皇帝のなかでも稀に見る有為の君主である。陳文帝は永寧陵に葬られ、今の南京郊外にあたるが、いまは棲霞区新合村獅子沖一帯とみとめられており、雄の石獣一対が現存し、南朝陵墓神道石刻芸術の集大成とみられている。(完)
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中締め [雑談]

 僕はけっこう酒を飲みます。家ではほとんど飲みませんが、飲み会の席や、友人と飲むときなどは最後まで行くタイプです。そういう人間なので、飲み会でよくある「中締め」というやつが、まあ文字通りの中間的な締めでしかありません。でもそこが、メンバーとか飲む目的なんかも絞られてきて、ほんとにディープな楽しい飲みの場に切り替わる、そういう区切りであることは間違いありません。
 僕の研究生活も、その「中締め」にようやくたどり着きました。博士論文を提出し、つい4日前にその公開審査を終えました。テーマは『南北の対比による中国江南六朝の考古学研究』。
 本来は学位委員会の正式な判断結果を待たないといけないわけですが、そこは暗黙の了解というか何というか、ひとまず審査に当たってくださった先生方からは、学位授与について内々定みたいなお言葉を頂戴することができました。就職して7年目から課程に入学し、3年はムリでも4年くらいで提出するべきところ、結局6年かかってしまいました。近年、若手研究者は30代前半までに学位を取得する人が多いですから、世間一般でよく中堅年代といわれる40代がもう近いところに見える年齢となった僕は、かなり後ろのスタートラインということになります。
 でもレベルや内容の良し悪しはさておき、論文という著作物が、研究成果だけでなく、今までのいろんな見聞や経験、思考なども目には見えない形で反映されるものであるとするなら、僕の博士論文は職業人として、若手研究者として、学芸員として、個人として、自分自身のこれまでを未完成ながらもある程度整理し、詰め込んだ、「中締め」なのだとおもいます。そこは30代半ば以前の本当の「若手」の方々が執筆された博士論文と少し違うところなのかもしれません。
 そして、中締めですから、ここからさらに広がり、深まり、また反省し、修正し・・・など、さまざまな展開をはらんでいます。楽しい飲み会の中締めと同じように、ここから自分の研究も生き方も仕事も有意義なものへと深まっていくよう、今回提出した博士論文と3月には頂戴できるであろう博士の学位を、良い意味での区切りにして活かしていきたいとおもいます。
 みなさま、今後もお付き合いをよろしくお願い申し上げます。

集安高句麗碑の発見 [中国考古]

中国吉林省集安市で、新たな高句麗碑の例が発見されました。高句麗研究に新知見をもたらす重要発見です。長文ですが、この報道記事の日訳を参考にどうぞ。ただし、ざっとしたにわか翻訳で、ちゃんとした厳密な訳文ではありませんので、ご了承ください。

《原題:集安で高句麗時期の記事碑を発見》 出典:鳳凰網、2013.1.15

本報通化訊(記者・盧紅) 先日、集安市で高句麗時期の重要文物が発見された。集安市麻線村五組の村民・馬紹彬が麻線河に石を採集に行ったとき、古い橋の下100mあまりの河床に1点の文字のある大ぶりの石板をみつけた。集安市文物局はすぐさま専門家を組織してこの石板に関する鑑定と検証をおこない、この石板が高句麗時期に立てられた記事石碑であると確定した。

1月4日、『中国文物報』はこの考古学界の重大発見について情報を発表した。


▼村民が石を拾いに行き文字のある石碑を発見
 馬紹彬によると、当時、彼は麻線河に石を拾いに行き、古い橋の下にさしかかったとき、河辺に1点の石をみつけた。彼が鍬で掘ってみると、結局、掘れば掘るほど石は大きく、掘り出してみると大きな石板であるとわかり、その上面には文字が書いてあった。彼は普通の石板ではなく、文物にちがいないと感じた。ショベルカーを雇って石板を自宅の玄関前に運ばせて保管し、文物保護派出所に電話をかけた。

 石碑の発見は、集安市委員会、市政府のきわめて重視するところとなり、石碑の保護と研究にあてる予算がつけられた。

 省文物鑑定委員会常務委員、通化市文物保護研究所所長の王志敏は石碑の石材、形状と碑文から、この石碑は高句麗好太王時期以前の石碑である可能性が高いと初期判定を下した。

 集安市政府は国家と省の関係部門の要求により、集安高句麗碑保護研究指導班を設置し、国内の著名専門学者である林澐、魏存成、張福有、耿鉄華、孫仁杰を招聘して石碑の検討を進め、この石碑は高句麗時期の碑刻であり、年代は好太王から長寿王にかけての時期と最終確定した。集安博物館は考古スタッフを組織して、石碑について詳細調査と実測作業をおこなった。碑文は集安博物館副研究館員の孫仁杰が模写した。


▼好太王から長寿王の間に立てられたものか
 石碑が出土した麻線河は老嶺山脈の南麓に源流があり、北から南にむかって、麻線溝盆地を経由して鴨緑江に注ぐ。麻線溝盆地には千基にのぼる高句麗墓葬が分布しており、洞溝古墓群の麻線墓区に属す。そのなかには世界文化遺産の千秋墓、西大墓など6基の高句麗王陵がある。今回の石碑は千秋墓から約456mの東南方向で出土し、西は西大墓へ約1149m隔たっている。

 「石碑の石材と将軍墳の石材は類似している。」と王志敏は言い、後の調査によって、石材は現地、麻線の建疆、紅星採石場で採れることがわかった。石碑の碑体は平たい長方形を呈し、上の幅が狭く下が広く、正・背両面と左右両側は加工され、平滑に整えられている。碑首は圭形を呈し、右上の角が欠損し、底部の両角は丸みがあり、底面中央に差し込みの突起がある。碑身は正・背両面が精緻に加工され、表面は平滑に整えられ、正面上半部分の碑文は摩耗が深刻だが、下半部の碑文は摩耗が比較的軽微で、背面は全体的に磨滅が深刻で、人に壊された形跡がある。

 石碑の鑑定・検討に加わった通化師範学院高句麗研究院院長の耿鉄華教授によると、好太王碑の第四面には、「自上祖先王以来、墓上不安石碑、致使守墓人煙戸差錯。唯国岡上広開土境好太王、尽為祖先王墓上立碑、銘其煙戸、不令差錯。」と記載されているという。これにより、好太王までは高句麗王陵には石碑がなく、各王陵の守墓煙戸の数量、出所を石碑に刻むこともなかったが、好太王だけが歴代先王のために立碑し、守墓煙戸を刻銘し、間違いを起こさせないようにした。石碑の碑文の内容の分析によると、石碑は主に高句麗王陵守墓煙戸の売買の問題に焦点があり、守墓煙戸の売買を禁止し、同時に20名の煙戸を刻銘して後世の人に示している。したがって、石碑は高句麗が守墓煙戸の管理を強化するために立てたものである。耿鉄華は、「これによってわれわれは、この石碑が好太王が先王のために立てた石碑であると推測する。」という。

 林澐、魏存成、徐建新などの専門家は、集安高句麗碑は、麻線高句麗墓区から出土し、石碑は河床で長期間にわたり磨滅し、自然の状態であったことが明らかであり、幸いにも残存した文字内容は好太王碑碑文と密接な関係があり、書風も類似しているため、その真実性を認めてよいと考えている。

 吉林省文史館館員、省高句麗研究中心の専門家委員会主任の張福有研究員は、碑文の内容分析から、碑文中に「元王始祖鄒牟王」「太王」「先聖」の字句が現れており、好太王自身の口ぶりではないと考える。とりわけ「追述先聖勛弥高悠烈、継古人之慷慨」とある、この「先聖」は長寿王によるその父の好太王に対する呼称である可能性があり、これは好太王が尊崇される地位にあったことと符合する。長寿王は遷都以前に好太王の「存時教言」にもとづいて煙戸のために守墓の「定律」の碑を立てた、とするこの考え方もまたあり得る。


▼好太王碑との相互関連の確認
 耿鉄華の紹介によると、この石碑の正面陰刻碑文は漢字の隷書で、全体の配置は非常に規則的で、上から下へ、右から左へ縦書きされており、全文で計218字あるが、右上の欠損で約10字が決失し、石碑が長期間河床にあったため河の水で洗われ砂や石で磨滅していることにより、一部の文字が糢糊としているが、初歩検討により特定できた文字が140字ある。

 「石碑の内容は好太王碑に近く、好太王碑と相互に関係づけ確認しうるため、高句麗研究に信頼できる歴史的な文字証拠と新たな文字資料を提供した。」 耿鉄華によると、この石碑碑文は漢字の隷書であるが、一歩進んでいえば高句麗が漢字の隷書を公式書体としていたことを示すという。圭形石碑は東漢以来常用の形制であり、高句麗と中原が文化上つながっていたことを反映している。碑文の書体は流暢にして秀麗であり、後世の人が採拓し模写するのに適した、高句麗の文字書法を研究するうえで新たな貴重な資料である。

 「これは好太王碑発見から135年来では、初めての高句麗碑の発見であり、考古学界の重大発見と呼ぶにふさわしい。」 耿鉄華教授が言うには、現在発見されている高句麗文字資料がかなり希少な情況において、今回の集安高句麗碑の出土はとりわけ貴重であり、高句麗の政治、経済、文化、芸術などの方面の研究において、きわめて重要な価値を有する。いま、この石碑はすでに集安博物館に収蔵されており、この石碑に関する詳細な情報は文物部門の整理、成文を経て、近く出版される。


▼石碑の発見位置
 集安市麻線溝盆地の、世界文化遺産千秋墓から約456m、世界文化遺産西大墓から約1149mのところに位置する。

▼石碑の材質
 将軍墳の石材と近似する。

▼碑の残存サイズ
 残存高173cm・幅60.6~66.5cm・厚さ12.5~21cm、下部の差し込み突起の高さ15~19.5cm・幅42cm・厚さ21cm、重量464.5kg。
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謹賀新年、そして今年の展覧会 [雑談]

 明けましておめでとうございます。新年快乐!万事如意!
 もう松も取れようという頃で、ずいぶん遅まきながらですが。

 さて、新年のことといいますと。
 まず、今いよいよ仕事が慌ただしくなりつつあるのが、
日中国交正常化40周年 特別展 『中国 王朝の至宝』
の準備。つい昨年末まで、東京国立博物館で開催されていた、あれです。
次は神戸へ移動して、2月初めから4月初めまで開催されます。そしてその後、4月下旬~6月下旬が名古屋会場で開催というわけです。
 名古屋でも同じ展示品を全部展示しますが、僕の職場の博物館は、展示室の規模が東京国立博物館には到底及ばないのと、展示室の形もあまりよろしくないので、展示はちょっと見づらいかもしれません。
そのかわりというわけでもないですが、講演会とか説明会は充実させております。こんなこと言うとナンですが、他会場では関連行事はそれほど力が入っている感じではありません。その点で、名古屋会場はかなり力を入れています。詳しくは→NHKネットクラブ イベント・インフォメーション
 記念講演会は3回、そして会期中盤過ぎの6/9までは毎週日曜日に毎回テーマを変えて展示説明会、さらに西域文書を読む学習会、中国の歴史と文化にかんするちょっとゆるめの講座、ゴールデンウィークは子供向けのワークショップ、と盛りだくさんです。毎週日曜日の展示説明会も僕が話すのですが、1回30分程度ながら、じつはこいつがいちばん大変で、毎回テーマを変えるということは、つまり1週間の間に異なる話題をまとめ、パワーポイントを作り替えるという作業を6回繰り返すということなのであります。こういうところは、他会場とは違う、名古屋会場の熱意が表れているとおもいませんか?たくさんの方に見に来ていただきたいし、見に来たからには、何か感じたことや学んだことを持って帰っていただきたいとおもうのです。
 まだ『中国 王朝の至宝』を見に行っていない方は、ぜひ名古屋で。東京で見た、あるいは神戸で見るという方も、それは予習とおもっていただき、ぜひ名古屋で復習を!

 みなさん良い一年をお過ごしください。本年もよろしくお願い申し上げます。

志段味のこと [雑談]

 本当は、締切り破ってる原稿がたくさんあってそれを早く書かないといけないのだけど、どうにも気分とペースが乗ってこない。なので、こんなつまらんブログの1ヶ月ぶりの更新をしている。

 今年は企画展準備に始まって、4月末~6月初にその企画展を開催し、後片付け・残務処理、そして夏の行事・・・、なんとなくドタバタと、気付けば1年のうち4分の3が過ぎていた。
 その企画展『尾張氏☆志段味古墳群をときあかす』も、もはや3、4ヶ月前とは思えないほど遠い彼方のことだ。展示や図録の中で言い足りなかったこと、反省点、もっとやりたかったこと・・・挙げればいろいろあるにはある。でも、僕の尾張の古墳研究はあの展示がこれまでの集大成であり、一区切りとなったことはまちがいない。

 だから、これで僕は尾張や名古屋の古墳研究から退こうと思っている。僕の次の「世代」の学芸員には、優秀な古墳研究者が合計3人もいる。僕が関わるべきではないだろう。実際の年齢としては2~6歳程度しか違わないので、「世代」と呼ぶのは失礼かもしれない。でも、ここでやってきた仕事の経緯と熱の入れ方という面からいえば、やはりかれらは次の「世代」なのだ。いや、「世代」というよりも、「時代」なのかもしれない。次の「時代」の学芸員、かれらのことはそう呼ぶべきか。

 僕は、ここの市の学芸員にちゃんとした古墳研究者が誰もいなかったときから、1人でこの地域の古墳について研究や未整理資料の公表などをやってきた。
 今やずいぶん知名度の上がった「志段味古墳群」も、僕がずっと、あそこは1日も早く発掘調査に着手し、守っていくべきだ、なんだかんだと、わぁわぁ言い続けていたら、5年経ったある日突然、君が発掘調査を担当しなさい、ということで関わることになった。秋にその調査が終わり、冬に調査成果の概報を刊行したら、直後の3月末に、今度は本庁で古墳整備に道筋をつける仕事をお前がやれ、ということで異動になった。何としても進めなければいけなかったから、内心では承知のうえでずいぶん乱暴なやり方もしたし、迷惑もかけた。だから同じ市の考古学の学芸員たちからは嫌われ、警戒・敬遠された。
 でも、あの頃僕が最初の調査を担当しなかったら、強引に方向性を打ち出さなかったら、僕があそこの古墳について仮説を示さなかったら、トレンチの設定場所を指示しなかったら・・・、いったい、今の志段味古墳群はあっただろうか。その経緯の中にある過程と多くの結果の事実は、誰が何と言おうと一歩も譲れない。そもそも市として公式名称にした「志段味古墳群」を名付けたのは、僕なのだ。
 だから僕は志段味という地域と「志段味古墳群」に対しては、職務としての責任や学問的な興味関心や好き嫌いの問題だけではなくて、あの地域の人や風土への愛着や貢献したい気持ち、自分自身が心血を注いだやりがい、地元と文化財自体への誠意と責任感、そういうものすべてをひっくるめた思いがある。
 今年の春に開催した企画展は、学問的な集大成という以前に、僕が地元への恩返しとしてやらなければいけないと強く思ったからこその企画だ。それをともかくも果たした今、僕はもう志段味古墳群に口出しをしないでいようと思う。次のかれらが、地元のひとびとの思いからずれた方向へ向かわないかぎりは。

 今後僕は、自分自身の本来の専門分野である中国考古の方面で、歩みを速めることにします。

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