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発見、楽浪土城の高句麗瓦 [中国考古]

ひさびさの更新です。
僕の職場の博物館が所蔵する1点の古代の軒丸瓦が、1987年に寄贈されて以来、出土地・時代が不明でしたが、楽浪土城(朝鮮・平壌市)で用いられた高句麗・平壌期(5~7世紀)の瓦だということが明らかになりました。楽浪土城という東アジアの重要遺跡を考えるうえで、貴重な資料です。国内でも、大学や国立研究機関など数ヶ所しか所蔵しない珍品です。
この件について、中日新聞さんが、今朝8/17(日)の朝刊・市民版に、とてもいい記事を書いてくれました。ありがとうございました。
楽浪記事s.jpg

高句麗太王陵銘文磚 [中国考古]

職場の博物館が所蔵する1点の磚が、高句麗太王陵の磚であることを確認しました。
その話題を中日新聞さんが記事にとりあげてくれました。驚くことに第1面に掲載で!まあ、他にこれといった話題がなかった日だったのでしょうが・・・(笑)。
2013年4月16日~6月23日の間、常設展示室内の「フリールーム」で公開中です。よかったら、4月24日~6月23日開催の『中国 王朝の至宝』展とあわせて、ご来館ください。

中日新聞20130416朝刊.jpg
中日新聞2013.04.16朝刊
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集安高句麗碑の発見 [中国考古]

中国吉林省集安市で、新たな高句麗碑の例が発見されました。高句麗研究に新知見をもたらす重要発見です。長文ですが、この報道記事の日訳を参考にどうぞ。ただし、ざっとしたにわか翻訳で、ちゃんとした厳密な訳文ではありませんので、ご了承ください。

《原題:集安で高句麗時期の記事碑を発見》 出典:鳳凰網、2013.1.15

本報通化訊(記者・盧紅) 先日、集安市で高句麗時期の重要文物が発見された。集安市麻線村五組の村民・馬紹彬が麻線河に石を採集に行ったとき、古い橋の下100mあまりの河床に1点の文字のある大ぶりの石板をみつけた。集安市文物局はすぐさま専門家を組織してこの石板に関する鑑定と検証をおこない、この石板が高句麗時期に立てられた記事石碑であると確定した。

1月4日、『中国文物報』はこの考古学界の重大発見について情報を発表した。


▼村民が石を拾いに行き文字のある石碑を発見
 馬紹彬によると、当時、彼は麻線河に石を拾いに行き、古い橋の下にさしかかったとき、河辺に1点の石をみつけた。彼が鍬で掘ってみると、結局、掘れば掘るほど石は大きく、掘り出してみると大きな石板であるとわかり、その上面には文字が書いてあった。彼は普通の石板ではなく、文物にちがいないと感じた。ショベルカーを雇って石板を自宅の玄関前に運ばせて保管し、文物保護派出所に電話をかけた。

 石碑の発見は、集安市委員会、市政府のきわめて重視するところとなり、石碑の保護と研究にあてる予算がつけられた。

 省文物鑑定委員会常務委員、通化市文物保護研究所所長の王志敏は石碑の石材、形状と碑文から、この石碑は高句麗好太王時期以前の石碑である可能性が高いと初期判定を下した。

 集安市政府は国家と省の関係部門の要求により、集安高句麗碑保護研究指導班を設置し、国内の著名専門学者である林澐、魏存成、張福有、耿鉄華、孫仁杰を招聘して石碑の検討を進め、この石碑は高句麗時期の碑刻であり、年代は好太王から長寿王にかけての時期と最終確定した。集安博物館は考古スタッフを組織して、石碑について詳細調査と実測作業をおこなった。碑文は集安博物館副研究館員の孫仁杰が模写した。


▼好太王から長寿王の間に立てられたものか
 石碑が出土した麻線河は老嶺山脈の南麓に源流があり、北から南にむかって、麻線溝盆地を経由して鴨緑江に注ぐ。麻線溝盆地には千基にのぼる高句麗墓葬が分布しており、洞溝古墓群の麻線墓区に属す。そのなかには世界文化遺産の千秋墓、西大墓など6基の高句麗王陵がある。今回の石碑は千秋墓から約456mの東南方向で出土し、西は西大墓へ約1149m隔たっている。

 「石碑の石材と将軍墳の石材は類似している。」と王志敏は言い、後の調査によって、石材は現地、麻線の建疆、紅星採石場で採れることがわかった。石碑の碑体は平たい長方形を呈し、上の幅が狭く下が広く、正・背両面と左右両側は加工され、平滑に整えられている。碑首は圭形を呈し、右上の角が欠損し、底部の両角は丸みがあり、底面中央に差し込みの突起がある。碑身は正・背両面が精緻に加工され、表面は平滑に整えられ、正面上半部分の碑文は摩耗が深刻だが、下半部の碑文は摩耗が比較的軽微で、背面は全体的に磨滅が深刻で、人に壊された形跡がある。

 石碑の鑑定・検討に加わった通化師範学院高句麗研究院院長の耿鉄華教授によると、好太王碑の第四面には、「自上祖先王以来、墓上不安石碑、致使守墓人煙戸差錯。唯国岡上広開土境好太王、尽為祖先王墓上立碑、銘其煙戸、不令差錯。」と記載されているという。これにより、好太王までは高句麗王陵には石碑がなく、各王陵の守墓煙戸の数量、出所を石碑に刻むこともなかったが、好太王だけが歴代先王のために立碑し、守墓煙戸を刻銘し、間違いを起こさせないようにした。石碑の碑文の内容の分析によると、石碑は主に高句麗王陵守墓煙戸の売買の問題に焦点があり、守墓煙戸の売買を禁止し、同時に20名の煙戸を刻銘して後世の人に示している。したがって、石碑は高句麗が守墓煙戸の管理を強化するために立てたものである。耿鉄華は、「これによってわれわれは、この石碑が好太王が先王のために立てた石碑であると推測する。」という。

 林澐、魏存成、徐建新などの専門家は、集安高句麗碑は、麻線高句麗墓区から出土し、石碑は河床で長期間にわたり磨滅し、自然の状態であったことが明らかであり、幸いにも残存した文字内容は好太王碑碑文と密接な関係があり、書風も類似しているため、その真実性を認めてよいと考えている。

 吉林省文史館館員、省高句麗研究中心の専門家委員会主任の張福有研究員は、碑文の内容分析から、碑文中に「元王始祖鄒牟王」「太王」「先聖」の字句が現れており、好太王自身の口ぶりではないと考える。とりわけ「追述先聖勛弥高悠烈、継古人之慷慨」とある、この「先聖」は長寿王によるその父の好太王に対する呼称である可能性があり、これは好太王が尊崇される地位にあったことと符合する。長寿王は遷都以前に好太王の「存時教言」にもとづいて煙戸のために守墓の「定律」の碑を立てた、とするこの考え方もまたあり得る。


▼好太王碑との相互関連の確認
 耿鉄華の紹介によると、この石碑の正面陰刻碑文は漢字の隷書で、全体の配置は非常に規則的で、上から下へ、右から左へ縦書きされており、全文で計218字あるが、右上の欠損で約10字が決失し、石碑が長期間河床にあったため河の水で洗われ砂や石で磨滅していることにより、一部の文字が糢糊としているが、初歩検討により特定できた文字が140字ある。

 「石碑の内容は好太王碑に近く、好太王碑と相互に関係づけ確認しうるため、高句麗研究に信頼できる歴史的な文字証拠と新たな文字資料を提供した。」 耿鉄華によると、この石碑碑文は漢字の隷書であるが、一歩進んでいえば高句麗が漢字の隷書を公式書体としていたことを示すという。圭形石碑は東漢以来常用の形制であり、高句麗と中原が文化上つながっていたことを反映している。碑文の書体は流暢にして秀麗であり、後世の人が採拓し模写するのに適した、高句麗の文字書法を研究するうえで新たな貴重な資料である。

 「これは好太王碑発見から135年来では、初めての高句麗碑の発見であり、考古学界の重大発見と呼ぶにふさわしい。」 耿鉄華教授が言うには、現在発見されている高句麗文字資料がかなり希少な情況において、今回の集安高句麗碑の出土はとりわけ貴重であり、高句麗の政治、経済、文化、芸術などの方面の研究において、きわめて重要な価値を有する。いま、この石碑はすでに集安博物館に収蔵されており、この石碑に関する詳細な情報は文物部門の整理、成文を経て、近く出版される。


▼石碑の発見位置
 集安市麻線溝盆地の、世界文化遺産千秋墓から約456m、世界文化遺産西大墓から約1149mのところに位置する。

▼石碑の材質
 将軍墳の石材と近似する。

▼碑の残存サイズ
 残存高173cm・幅60.6~66.5cm・厚さ12.5~21cm、下部の差し込み突起の高さ15~19.5cm・幅42cm・厚さ21cm、重量464.5kg。
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