その四、東大久手古墳・西大久手古墳 [志段味の古墳]
中断していた志段味の古墳シリーズのつづきだ。
大久手古墳群には、志段味大塚古墳をはじめ4基の帆立貝形前方後円墳があるが、今回紹介する東大久手古墳(写真上)・西大久手古墳(写真下)がそのうちの2基だ。大久手1号墳、大久手2号墳という別名でよばれる場合もある。
写真では、2基とも一見立派な墳丘にみえるが、じつは見かけだおしだ。いずれも今は高さ40~50cm程度の平坦な墳丘が残存しているだけで、生い茂った樹木が、両古墳の墳丘を立派なものにみせている。しかし帆立貝形前方後円墳の平面形はかなり「良好」に残存するのが、せめてもの救いだ。墳長はいずれも40m弱である。
東大久手古墳は、古墳の時期を知るのによく使われる『前方後円墳集成』という本では、「9期」という時期、つまり6世紀初頭~前葉ごろに位置づけられている。また西大久手古墳は情報がなく、位置づけじたいがされてこなかった。
ところが、つい最近、僕の職場の収蔵庫を漁っていると、「大久手2号墳」、「大久手3号墳」それぞれの裾の畑で採集したという須恵器が見つかった。これらの須恵器、前者が濃尾地域でいう猿投窯の「東山48(218-Ⅰ)号窯」式期、後者が「城山2号窯」式期あたりとおもわれ、いずれも5世紀中葉~後半のもののようだ。「大久手2号墳」は西大久手古墳のことで、「大久手3号墳」は西大久手古墳の近くにある直径20m弱の円墳だから、この須恵器が本来これらの古墳のものだとすると、従来考えてきたよりも形成時期が溯る古墳群の可能性がでてくる。
そしてまもなく、まさにこれらの古墳を調査することになるのだから、このモヤモヤした疑問が解けるにちがいない。もちろん仕事だから、必要なデータをえることも、古墳の保護が目的であることも忘れてはいない。しかし学問的な問題意識、疑問や関心をもちながら遺跡と向き合えることは必要だし、また幸せなことだとおもう。こんどの調査は、日程的には相当厳しいのだが、自分を頑張らせる励みになるというものだ。
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